日本の名曲

20世紀の日本人を感動させた歌(1997年)

日本の名曲ランキングです。NHKが1997年に行った「20世紀の日本人を感動させた歌」です。邦楽・歌謡曲の傑作。約1775万人を対象に行った人気投票(アンケート)の結果です。J-POP、演歌、バラードからロック、フォークまで。1位は「川の流れのように」、2位は「いい日旅立ち」、3位は「神田川」です。さだまさしが作詞・作曲した「秋桜」は8位です。(MOVE 大畑亮介)

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■ トップ10
順位 曲名、歌手、発売年、動画 説明
「川の流れのように」

美空ひばり

1989年1月
(平成元年)

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「昭和の歌姫」「歌謡界の女王」として語り継がれる美空(みそら)ひばりの代表曲。 昭和時代が終わる直前にレコーディングされ、 平成時代が幕を開けた3日後に発売された。

発売から5か月後、ひばりは肺炎により52歳の若さで亡くなり、本曲は遺作となる。 葬儀では、参列した大勢の歌手仲間たちが目を真っ赤に泣きはらし、この歌を合唱した。

美空ひばりは1937年、横浜の下町の魚屋の娘として誕生。 終戦直後の1945年、非凡な歌の才能に驚いた周囲におされる形で、8歳にして地元の舞台に立つ。 12歳でプロデビュー。 数々のヒットを放ち、 戦後の焼け野原から立ち上がる日本の人たちの心の支えとなった。

生涯で1億枚以上のレコードを売り上げた美空ひばりだが、 本曲は人生で最大のヒット作。 とくに没後にセールスを伸ばし、200万枚の販売を記録した

冒頭からひばりらしい低い声で心を惹きつけ、 壮大なドラマのように盛り上がっていく。 歌詞は「知らず知らず 歩いて来た細く長いこの道」で始まり、「ああ 川の流れのように ゆるやかに いくつも時代は過ぎて・・」というサビへと展開する。 誰もが知っているやさしい日本語で、人生とは何かを問いかける。

作詞は、後に「AKB48」を生むことになる秋元康。 この曲だけでなく、 収録アルバム『不死鳥パート2』全体の総合プロデューサーを担当した。当時30歳だった。

秋元は大学時代からテレビの放送作家として大活躍。 作詞家としても、小泉今日子の「なんてったってアイドル」など多くのヒット曲を手がけた。 さらに、女子高生グループ「おニャン子クラブ」を大成功させ、 バブル期の日本のチャラい風潮の中で、時代の寵児となった。 しかし、本人は「流行歌でなく、本物の大人の歌を書きたい」との思いを抱き、 かねてから尊敬していた美空ひばりの事務所宛てに売り込みの手紙を送ったこともあったという。

かたや美空ひばりは1985年4月に重度の慢性肝炎などで緊急入院し、 一時は再起不能とも言われた。 長期の闘病生活を送るなかで 「若い世代向けのアルバムをつくりたい」と思い立つ。 そこで秋元に白羽の矢が立った。 作曲はロック・ミュージシャンの見岳章が担当した。

アルバムから最初のシングルを決める際、 レコード会社は別の曲を選び、すでに準備に入っていた。 ふだんは周囲の方針に従うひばりだが、 この時だけは「私は『川の流れのように』でいきたいの!」と熱烈に訴え、土壇場で変更されたという。

子供のころから大スターだったひばりだが、 19歳のときにストーカー的なファンから顔に塩酸をかけられ大やけどをしたり、 暴力団との親しい関係が大きな問題になったり、 小林旭と短期間で離婚したり、 肉親と相次いで死別したり、 波乱万丈の人生だった。 関係者は、 ひばりが本曲のテーマである「川」と、 自分の人生を重ね合わせたのだろう、 と証言している。
「いい日旅立ち」

山口百恵

1978年11月

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美しい心象風景のような日本の田舎の姿を描いた名曲。 叙情豊かで、唱歌のように穏やかなメロディーが心を打つ。 19歳の山口百恵さんが歌った。 山口百恵の最大のヒット曲でもある。

サビの歌詞は「あゝ日本のどこかに。私を待ってる人がいる」。 作詞・作曲は、歌手としても大活躍していた谷村新司。 「私たちには帰る場所がある。そこで、私とは何かを確かめられる」というメッセージが込められている。 新鮮味と懐かしさを共存させた曲を作れるというソングライティング能力が存分に発揮されている。

山口百恵さんは1970年代の伝説のアイドル。 1973年春にデビュー。 この曲により、「ナンバー1アイドル」からさらに飛躍を遂げ、「国民的歌手」となった。

もともと国鉄(現JR)のキャンペーン・ソングとして制作された。 「いい日旅立ち」という言葉も、国鉄の広告を担当していた電通の社員がキャンペーンのために考えたコピーだったという。 テレビCMで、列車が田園や海辺を行く映像とともに流された。 歌はその後も何度かリメークされ、今も東海道新幹線などの車内でメロディーが流れる。
「神田川」

南こうせつとかぐや姫

1973年9月

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日本製フォークソングの傑作。 「70年代フォークの旗手」と呼ばれたかぐや姫の代表作となった。 「三畳一間の小さな下宿」での同棲(どうせい)生活を唄った。 時代の空気をリアルに切り取り、若者から大きな共感を得た。

当初はアルバムに収録されただけで、シングル発売の予定はなかった。 しかし、深夜のラジオ番組『オールナイトニッポン』などでリクエストが殺到。 ファンに押される形でシングル発売されると、大した宣伝もしないのにオリコン1位になった。 歌謡曲の全盛時代にあって、画期的な出来事となった。

1970年代に青春をすごした人の気分に見事にマッチし、世代を代表する歌になった。団塊の世代の人なら、ほとんど全員が歌える。 また、この曲がヒットした1973年は石油ショックの年。街のネオンが消え、トイレットペーパーの買い占め騒動もあった当時の世相は、ほの暗いこの曲の雰囲気と重なった。

作曲は南こうせつ。作詞は、こうせつの学生仲間の喜多條忠(きたじょう・まこと)。 電話で喜多條がこうせつに「いい詞ができた」と言って読み上げていると、 南はその場でメロディーが浮かび上がり、 電話が終わるころには曲ができていたという。

歌詞は、喜多條の学生時代の実体験にもとづいている。 学生運動華やかなりしころに早稲田大学の学生だった喜多條さんはよくデモに参加。 機動隊と衝突し、痛めつけられて帰る先は、東京の神田川近くの狭いアパートだった。 そこで同棲相手の彼女がカレーを作る姿に小さな幸せを見いだしながらも、昼間のデモとの落差に戸惑った。 そんな記憶の断片が、歌詞のディテールを彩っている。
「高校三年生」

舟木一夫

1963年6月

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舟木一夫が18歳のときの鮮烈なデビュー曲。 ミリオンセラーとなり、当時の若者にとってかけがえのない青春ソングとなった。

高校を卒業したばかりだった舟木は、この曲とともに学生服で音楽界に登場。 清楚なルックスとともに人気を集め、「戦後初のアイドル」とも言われた。 さらに、橋幸夫、西郷輝彦と並び「御三家」と呼ばれるようになった。

歌詞は「赤い夕陽(ひ)が 校舎をそめて」と始まる。 作詞は丘灯至夫(おか・としお)。 当時、雑誌の記者だった丘は、 戦後の学生が男女で手をつないでフォークダンスを踊っている自由な姿に感動し、 筆をとったという。

作曲は遠藤実。 遠藤は歌詞を見たとき、自分が貧乏だったため中学校に行けなかったことがよみがえったという。 新潟の紡績工場で見習工をしながら、学生服に憧れ続け、校章に似たバッジを帽子につけて悔しさをまぎらわせていた。 しかし、寂しい感じの曲にはしなかった。東京五輪が翌年に迫っていたので「軽快で明るいほうがいい」とファンファーレ風の旋律にした。 遠藤は生前、自伝で「私自身の失われた青春に対するオマージュ(賛辞)」だと語っていた。(佐々部光章)

「アジアの純真」

Puffy

1996年5月

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2人組の女性グループ、Puffy(パフィー)の代表作。 「北京 ベルリン ダブリン リベリア…」「イラン アフガン 聴かせて バラライカ…」などと歌う。 21世紀のアジアの時代を先取りしたかのような先駆的な曲であり、 欧米にばかり目が向きがちだった当時の日本人に新鮮なインパクトを与えた。

プロデュースと作曲を担当した奥田民生が「Puffyという新人をやるんですが、詞をお願いできないでしょうか」と井上陽水に電話したことから始まった。 娘が奥田のファンだった陽水はこの申し出を快諾。「この歌、訳が分からないからダメ」と言った関係者もいたというが、 見事な大ヒットとなった。
「いとしのエリー」

サザンオールスターズ

1979年3月

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日本のロック史に残る傑作バラード。 イントロのコーラスが聞こえた瞬間に心がしめつけられる曲として輝きを放っている。 「泣かした事もある」で始まり、「俺にしてみりゃ これで最後のLady。エリー My love so sweet」というサビの言葉で極まる。

桑田佳祐が後に妻となる原由子に「ごめんなさい」と謝るために作った曲とされる。 史上最強のソウル歌手の一人とされる巨人レイ・チャールズが1989年にカバーした。
「荒城の月」

唱歌

1901年

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「中学唱歌」として世に出た1901年以来ずっと歌い継がれてきた。 世界に誇る名曲であり、貴重な文化財産でもある。滝廉太郎が作曲した。 日本で作曲された初めての西洋音楽の曲とも言われる。 教科書にも長らく採用されていたため、20世紀は「この曲を知らない人はまずいないだろう」と言われていた。

曲名の「荒城(こうじょう)」とは、荒れ果てた城のこと。 作詞は土井晩翠(どい・ばんすい)。 「春高楼の花の宴 めぐる盃(さかずき) 影さして……」で始まる。 たった十六小節(原曲は八小節)の短い音楽に、栄枯盛衰の世を惜しむ日本人の心が込められている。

廉太郎が作曲の際にモデルにしたのは、少年時代を過ごした大分県竹田市の岡城跡だとされる。
「秋桜」(コスモス)

山口百恵

1977年10月

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嫁ぐ娘が母を思う気持ちを唄った。しっとりとした曲調が美しい。山口百恵の独特の歌声が映える。 デビュー前から山口百恵を見守り、育てた音楽プロデューサーの酒井政利は「彼女の本質が最も現れた一曲」と評価している。

作詞・作曲はさだまさし。

多くの母親がこの曲を聴き、娘への愛情を重ねた。 また、多くの娘たちが、母への感謝を重ねた。

1978年のレコード大賞にノミネートされたが、惜しくもピンクレディーのUFOに敗れた。
「赤とんぼ」

唱歌・童謡

1927年

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懐かしい夕暮れの風景を思い起こさせる童謡。 歌詞や旋律が美しい。「夕焼小焼の 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か」という冒頭の一説は、国民の多くが口ずさめる。

三木露風作詞、山田耕筰作曲。 作詞の三木露風は幼いころに両親が離婚し、露風は母親と離れ離れになった。 子供のころは一人で遊ぶことが多かったという。 詩には「母」という言葉はない。 母親の代わりに子を背負うのは「姐(ねえ)や」である。 「姐や」が山の畑で桑の実を取る場面などが描写されるが、それがかえっ、母への思いを感じさせる。

三木露風は大人になって、国語の講師になったあと、故郷の景色を思い浮かべてこの詩を書いたという。 親友である作曲家、山田耕筰が曲をつけ、誰しも心に残る「赤とんぼ」ができあがった。

文化庁と全国PTAが2006年に行った「日本の歌百選」では、 3位に選ばれた。
10 「LOVE LOVE LOVE」

DREAM COME TRUE(ドリームズ・カム・トゥルー)

1995年7月

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作詞・吉田美和 作曲・中村正人。「ねぇどうして、すっごくすごく好きなこと ただ 伝えたいだけなのに ルルルルル うまく 言えないんだろう」で始まる。そして、「LOVE LOVE LOVE 愛を叫ぼう」で締めくくる。

吉田が作詞した「愛を叫ぼう」のフレーズを聴いて、リーダーの中村は驚きを隠さなかったという。それまでのドリカムの楽曲には見られなかった、ストレートなメッセージはメンバーにとって新鮮な響きだったという。

日刊スポーツ新聞が1996年に実施した「あなたが選ぶ21世紀でも唄われる歌謡曲」のアンケート投票で、堂々の第1位に選ばれた。 ちなみに、2位は山下達郎の「クリスマス・イブ」。

TBSドラマ「愛していると言ってくれ」(1995年7~9月)の主題歌。豊川悦司と常盤貴子主演。このドラマの最終回のワンシーンは、女性雑誌「JUNON」の読者投票で「1995年最も感動的な場面」の1位に選ばれた。

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■ 11~20位
順位 曲名、歌手、発売年、動画 説明
11 「上を向いて歩こう(スキヤキ)」

坂本九

1961年10月
(昭和36年)

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世界で最も売れた日本の歌。 「Sukiyaki」の名前で海外でも発売され、大ヒットした。 全世界のレコードの販売実績は1300万枚以上。 米ビルボードでも3週連続で1位に輝いた。 多くの外国人にとって「日本の歌」といえばこの歌である。

作詞は永六輔(えい・ろくすけ)。作曲は中村八大(はちだい)。 NHKのバラエティ番組「夢であいましょう」の「今月の歌」として1961年に発表された。 当時の日本の歌謡界では、外国の曲のカバーする歌手が多かった。 しかし、この「夢であいましょう」は、 外国の曲は一切使わず、 しかも、既存の日本の曲も使わない。 新しいタイプのオリジナルソングを、永と中村のコンビが次々とつくった。 そこから本曲のほか、「遠くへ行きたい」「こんにちは赤ちゃん」などの大ヒットが生まれた。 まさに画期的な番組だった。

永六輔の詩は、中村八大のピアノの上でできるといわれた。中村の即興のピアノ演奏に合わせ、永が言葉を乗せていく。だから日常語を使った歌が多かった。 この最強コンビが「歩きながら歌えるものを作ろう」と、歩調のテンポで弾いたものが『上を向いて歩こう』になったという。

歌手の坂本九(愛称・九ちゃん)は、 売れない時代を経てようやくヒットが出始めたころ、 この曲を歌うチャンスを得た。 当時まだ19歳。 にきび面のキュートな顔立ちで、真っ白な衣装と真っ赤なベストをまとい、 さわやかに、そして時に寂しげな表情で本曲を歌うと、 たちまち日本で大ヒットとなった。

海外で人気が出るのは、 その1年後。 イギリスのレコード会社の社長が、 日本で食べたすき焼きの味が忘れられなかったことから、 「Sukiyaki」という名前をつけた。 まずは歌の入らないインストゥルメンタル版がヒット。 その後、アメリカで、坂本九の日本語の歌をそのまま入れたバージョンがラジオで頻繁にかかるようになり、大ブレイクとした。 米ビルボードで英語以外の曲が1位になったのは過去に1回しかなく、史上2番目の快挙となった。

海外ではその後も何度かリバイバルでヒットした。 1981年にはアメリカの女性コーラスグループのテイスト・オブ・ハニーが英語詞で歌い、全米3位に。 1996年には、歌唱グループ「4PM」が英語の歌詞でア・カペラ(無伴奏)のバラードとして発売。ビルボード誌で8位となった。

坂本九は1985年、JAL(日本航空)に墜落事故により、 43歳という若さで亡くなった。

坂本九の長女でタレントの大島花子は、本曲は特に感慨深い歌だとしており、写真集「笑顔の贈り物」で、こんなエピソードを紹介している。

《父が亡くなった翌年の末、思い切って飛行機に乗り家族でハワイ旅行をしました。新年のカウントダウンがにぎやかだっただけに、帰りのタクシーで父のいない寂しさがつのりました。突然、ラジオから『上を向いて歩こう』が流れてきました。「これはパパの曲なの!」と現地の運転手に興奮して語りかけましたが、こんなところで、こんな形で元気づけてもらえるなんて、たまらなくうれしかったんです。

また、ウィーンやプラハなどでも日本人客だからと“スキヤキソング”を生演奏してくれたし、高校時代、ボストンでの短期留学では、アメリカ人教師が「“スキヤキ”はいい。日本のことは知らないけどあの曲は知っている。僕のママは、日本っていう国のことすら知らないのに、スキヤキソングは大好きだ」と言われてあぜんとしました。さまざまな形で元気づけられ、言葉も文化も違う海外で父の偉大さを実感する歌です》
12 「昴」
(すばる)


谷村新司

1980年4月
(昭和55年)

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夜空に浮かぶ星団に旅人が願いを込める様子を歌った。のびやかで雄大な名曲。

中国の原風景を思い浮かべながら書いたという。 作詞・作曲も手掛けた谷村新司は幼いころからずっと、心の中に中国があり、中国大陸へのあこがれを抱いていた。 服部良一が作曲した『蘇州夜曲(そしゅうやきょく)』のメロディーから浮かぶ郷愁や、香り豊かなジャスミン茶。中国的なものをなぜか好んでいたという。 学生時代は、三国志や水滸伝(すいこでん)など、中国のスケールの大きな歴史物を愛読した。

1971年に結成したバンド「アリス」で大ヒットを連発し、作曲家・作詞家として成功した後も「いつか大陸的な曲を作りたい」と思っていた。 いつも目を閉じると浮かぶ風景があり、地平線まで草原が続き、遠くに山並みが広がる。見上げれば、満天の星が浮かんでいる。 「まだ行ったことのない、中国のどこかだろうと思っていた」という。

そんな谷村に、ウイスキー「ニッカ」の広告担当から「中国大陸の映像をバックにした曲を」という依頼があり、すぐに飛びついた。 すぐに曲を書きあげる。 ニッカのCMに中国の映像とともに登場すると、 ニッカ本社には問い合わせが殺到した。

日本でヒットして間もなく、 香港で自然発生的に人気が出た。 香港では広東語で「星」というタイトルで歌われ、 レコードディスク賞を受賞した。 さらに、中国本土でも広まった。

谷村は中国などアジアと交流を深め、 21世紀になってからは、 上海音楽学院教授、南京芸術学院の客座(名誉)教授に就任した。
13 「赤いスイートピー」

松田聖子

1982年1月
(昭和57年)

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1980年代を代表する女性アイドル、松田聖子の8枚目のシングル。 好きな人に対する女性のプラトニックな気持ちを歌った。美しいメロディと情感あふれる言葉が光る。

1970年代のスーパーアイドルだった山口百恵が、1980年に結婚して引退。 ピンク・レディーも解散した。 入れ替わるようにできたのが、松田聖子だった。そのしぐさや言動から「ぶりっ子」という流行語が注目を集めた。

デビュー曲「裸足の季節」からアップテンポで高音を使う曲が続いていたが、 この曲はスローなバラード。 幻想的で淡い世界を奏でている。作曲は、「呉田軽穂」というペンネームで、歌手の松任谷由実(まつとうや・ゆみ、ユーミン)が手掛けた。 。

歌詞は「春色の汽車に乗って海に連れて行ってよ 煙草(たばこ)の匂いのシャツにそっと寄り添うから」で始まる。 「半年過ぎても、あなたって手も握らない」「何故、あなたが時計を チラッと見るたび 泣きそうな気分になるの?」など、青春の風景を描写するような言葉が続く。

作詞を担当した松本隆は当時、プロデューサー的な立場も担っており、聖子の曲がより幅広い層から支持されるためには、詩だけでなく曲調の変化も必要だと考えたという。 このため、ボーカルは高音でなく中音域の声で勝負することを提案した。

女性ファンが、この変化を敏感に感じ取った。 松田聖子自身の髪形も、この曲とともに、従来の「聖子ちゃんカット」からショートに変わる。 それまで「ぶりっ子で女の敵」のように受け止めていた女性も、本曲をきっかけに、女性にも好かれる存在に変わっていった。

音楽雑誌「レコードコレクターズ」が2015年に発表した「アイドル・ソング・ベスト100」の読者アンケート(1970年代、80年代部門)において、1位に選ばれた。 2015年のNHK紅白歌合戦のトリでも歌われた。
14 「人生いろいろ」

島倉千代子

1987年4月
(昭和62年)

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トップ歌手として活躍し続けた島倉千代子が、 波乱万丈だった自らの半生を重ねながら歌った渾身(こんしん)の名作。 「死んでしまおうなんて、悩んだりしたわ」と始まる歌詞を、 さらりと前向きに唄う。それまでの曲と違うフォーク調のリズムで、若者からも共感を得た。

島倉千代子は1955年に歌手として本格デビュー。 わずか16歳の若さだったが、 デビュー曲「この世の花」がいきなり200万枚売れた。 それ以来、「東京だョおっ母さん」や 「からたち日記」などを100万枚売るなど、 数々のヒットを生んだ。 NHK紅白歌合戦には30回連続で出場した。

しかし、その人生は様々な苦難が伴った。 幼少期、戦争の疎開先で大けがをし、 47針を縫う。左腕に後遺症が残った。 1961年には、ファンの投げたテープが両目にあたり、失明寸前と診断され手術を受けた。 親の猛反対を押し切って阪神タイガースの元選手と結婚するも離婚。 さらに、信頼していた知人に実印を預けたことで、 多くの人たちの借金の連帯保証人にさせられ、 16億円とも言われる借金を抱えた。

こうした不幸が重なり、 歌手生活も曲がり角を迎えるなかで、 49歳のときに放った特大ヒットが本曲。 作詞をした中山大三郎は「彼女のそれまでの人生を強く意識してつくった」と振り返っている。
15 「名もなき詩」

Mr.Children

1996年2月
(平成8年)

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16 「時の流れに身をまかせ」

テレサ・テン

1986年2月
(昭和61年)

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17 「浪漫飛行」

米米CLUB

1990年4月
(平成2年)

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18 「碧いうさぎ」

酒井法子

1995年5月
(平成7年)

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19 「TOMORROW」
(トゥモロー)


岡本真夜

1995年5月
(平成7年)

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20 「おふくろさん」

森進一

1971年5月
(昭和46年)

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「心に残る歌」よもう一度

(1998年4月1日、産経新聞)

1997年1年間に最も売れた曲のベスト5をあげると、(1)CAN YOU CELEBRATE?(2)硝子の少年(3)ひだまりの詩(4)FACE(5)STEADY。だれが歌ったどんな曲?と聞かれても、中年以上のオジサン世代に全問正解は望めそうもない。

ではオジサン世代が強そうな演歌部門だけを抽出して、(1)夫婦みち/まごころの橋(2)たてがみ(3)珍島物語(4)人生桜(5)うたかたの恋。これなら? 詞の内容は分からないが歌手名なら…とやや成績がよくなりそうだが、こちらも及第点はもらえそうにない。

今度は設定そのものを変えて、(1)川の流れのように(2)いい日旅立ち(3)神田川(4)高校三年生(5)アジアの純真-と並べてみるとどうか。これならかなりいい点数が期待できそうだ。しかも、もう少し若い世代にも結構納得してもらえそうな配列ではないか。

実は最後のベスト5は、NHKが1997年、1000万人投票と銘打って約1775万人を対象に行った「20世紀の日本人を感動させた歌」の上位5曲。一方、最初の1997年ベスト5は、チャート誌・オリコンがまとめたシングルCDの売り上げ枚数の上位5曲。

これをみて、1997年のヒット曲のうち何曲が後に“感動させた歌”として投票されるのかと考えると、その音楽的評価は別にして、かなり悲観的にならざるを得ない。そして、そんな気分は、この10年くらいの“ヒット曲”に共通していえるような気がする。

悲観的な気持ちにさせる原因を探っていくと、この分野でもまたバブル経済という時代の怪物にぶつかってしまう。むしろ、音楽業界で歌作りに携わってきた人たちこそが、バブル経済の中で最も大きな忘れ物をしてきたのではないかとさえ思えてならない。

売り上げ数字にこだわり過ぎるあまり、たとえば、楽曲主導のセールスを展開することで歌手とファンのつながりを希薄にしてしまったと指摘されるように、送り手側が「数字のいい歌」=「心に残る歌」という単純な価値観を作り上げてしまったのではないか。

受け手側のオジサン世代は、ただ単に最近の歌のリズムに乗れないという個人的資質の問題としてだけではなく、この事実にかなり以前から気づいていてCD離れを起こしていたが、ここへきて、その“ツケ”は若い世代にも確実に回ってきたようだ。

数字にこだわる楽曲作りの限界

日本レコード協会などによると、1989年(平成元年)以来、実売実績でつねに前年を上回る数字を残してきたCD(シングルとアルバム)の売上額が、1997年は約4956億円(1996年比96%)と、実に9年ぶりに前年割れを起こしてしまったという。

売り上げ枚数が100万以上のミリオンセラーの曲も、1996年の19作から16作に、200万以上のダブルミリオンセラーと呼ばれる曲も2作から安室奈美恵の「CAN YOU CELEBRATE?」1作だけになり、それぞれの規模そのものも小さくなっている。

安室の曲がフジテレビ系ドラマ「バージンロード」のテーマ曲だったように、これまでのミリオンセラーの多くはテレビドラマやコマーシャルなどとのタイアップで生み出されてきた。そして、それを支えてきたのがドラマ世代といわれる女子大生やOLだった。

だから、ミリオンセラーが減少し規模も小さくなってきたということは、20歳から25歳のドラマ世代がソッポを向き始めたとも言えるわけで、この傾向はより年齢層の低い、これまでCD購買の中心的存在だった10代の若者にも顕著にみてとれる。

確かに、1997年10月1日現在で65歳以上の人口が14歳以下を初めて上回った(総務庁発表)という統計でも分かるように、この世代の人口の低下という面も否めなくはない。しかし、コトはそんなに単純なものではないことに気づかなければならない。



要するに、財布のひもを締めなければならないという経済的制約があるにせよ、彼らにとって最近の歌はCDを買って聴くほどの魅力に乏しく、同じお金を投資するならより魅力的なエンターテインメントや商品に-という姿勢に変わってきたということなのだ。

たとえば、その対象は携帯電話やPHS、パソコンといった新しい生活必需品であったり、アニメや各種ゲーム、プリクラなど音楽以外の異業種のエンターテインメントであったりしていることは、携帯電話の新規契約者の月間通話料などをみても一目瞭然。

なぜそうなったのか。その最大の原因は、バブル経済時代に、送り手側=音楽に携わる人たち=が、“歌を作る心”を忘れた楽曲作りを行ってきたことにあるような気がする。バブル時代の大きな忘れ物とは、そうした歌作りの姿勢なのではないだろうか。

売ることを否定するつもりはないが、歌はときには、その人の人生さえをも変えてしまうほど偉大なものであるという事実も忘れないでほしい。NHKの投票結果が意味するものもぜひ考えてほしい。「心に残る歌」こそが「いい歌」なのだ。